2017年09月05日

瞽女と「玉木屋」

みなさんこんにちは学芸員Aです。

「松之山で母親が瞽女(ごぜ)の道案内をしていた。」

そう仰る方が博物館にお見えになりました。

「その瞽女たちがどこからきた知りたい。」とのこと。

瞽女とは、要するに音曲を奏でて歌って歩く旅の芸能一座のことです。

かつて田舎で娯楽の少なかった地域・時代、瞽女の存在は人々の楽しみの一角を占めていました。

松之山に出入りしていた可能性のある瞽女はどこからきた瞽女なのか。

調べてみると、ありました「上越市史」に。

これによると、高田瞽女は「5月20日から6月20日の間に東頸城・松之山の湯本あたりまで行った」とありました。

また、大潟町や吉川町などから来る「浜瞽女」、東部東頸城の山間部の「山瞽女」がいたそうで、浜瞽女は「5月から6月にかけては柿崎在から中頸城の山間部を巡り、松之山の湯本では玉木屋旅館に泊まり、湯治しながら昼は門付(かどづ)け、夜は温泉場を流した。お盆には帰宅するが、それが終わると再び出立し、7月と同じ東頸城を巡り、松之山まで行き、9月末に戻った。」

(上越市史 通史編 民俗1、平成16年、323・343頁)

だそうです。

研究書や一般書がたくさんありますので調べればもっと出てきそうですが、少なくとも高田瞽女と浜瞽女は松之山湯本まで行っていたと。

きっとこの方たちを、今日のお客様のお母様がご案内されたということなのでしょう。

やや緩めですが、お客様はここまでの回答でご満足いただけたようでした。

それにしても、ここに出てくる松之山の「玉木屋」とは?

もしかして、いまもある「玉城屋」(たまきや)さんのことでしょうか。

大きな旅館さんです。

誤植なのか、昔は「木」だったのか、はたまたそういう宿が別にあったのか。

少なくとも今はそういう名前の宿はありません。

瞽女宿だったかどうかは、すくなくとも地域史としては重要なこと、、調べてみます。

瞽女の巡行が終わったのは昭和39年(1964年)で、

瞽女さんへのインタヴューは昭和のこと。

これより50年前の明治47年(1914年〜)以降に「玉木屋」がなければ、

誤植の可能性が高いと考えてもいいでしょう。


松之山町史の929頁に「明治時代中期の温泉街」

(新潟県東頚城郡松之山町郷土資料からの転載か)

という図がありますので、すべての建物の名前をあげます。

藤田屋、藤屋、新宅、福住屋、和泉屋湯、浴場、和泉屋別館、

中屋、米屋、野本屋、和泉屋本館、そして、、、、玉城屋。

「玉木屋」はありませんね。明治時代中期とは明治20〜30年代でしょう。

次に、明治44年発行の「松の山温泉案内」(斉藤亮司)

には、和泉屋、千歳館、玉城屋、中屋、福島屋、藤屋、藤田屋、米屋(こめや)、

で全部とあります。ここでも「玉木屋」はありません。

次に、大正7年発行の「松之山温泉案内」は重要資料になりますが、、、、

すぐに入手できないので、今日はこの辺にしておきたいと思います。


なんともゆるい調査ばかりの1日でした。


ちなみにほかにもまだゆるい文献調査を行っていまして、

何とかすべきなのは調査者のゆるさなのかもと思う今日この頃です(自虐)。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 18:47| Comment(0) | 日記

2017年08月22日

関東のとどこがちがうの

みなさんこんにちは学芸員Aです。

加曽利貝塚のマスコットキャラクター「かそりーぬ」は可愛いですね。


加曽利といえば、

あるお客様が笹山遺跡のある土器を見ながら、こうおっしゃいました。

「関東の土器とそっくり。見分けがつかないんだけど、どこが違うの?」

目の前にしていた土器は大木8b式土器ないしこれに類似するものだったので、

関東のそれはきっと加曽利E式シリーズの中でもE1とE2のことじゃないかと

思いました。

関東のにそっくり。それは当然。

だって、東北地方南部の大木8a・bの影響で加曽利E1式が作り出されたからです。

逆ではない。関東からの影響でこちらの土器ができたわけではないのです。

でも、土器スタイルの影響関係はともかく、

かそりーぬ(加曽利)の影響で

だいぎはちびーぬ(大木8b)とか、とちくらーぬ(栃倉)とかが作り出されても、

悪くはないかもしれないと思ったりしましたが、

すぐさま「需要」が極めて少なさそうなことに気がつき、

妄想から覚めました。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 16:30| Comment(0) | 日記

2017年08月16日

火焔型土器とヒスイの美意識

みなさんこんにちは、学芸員Aです。

お盆がらみでお客様が大変多くみえます。

そうすると窓口で質問なさる方もちらほらおられ、

幾度かご対応させていただきました。


「火焔型土器とヒスイと、なにかの美意識が繋がってるんですか」


そんなご質問もいただきました。

とても夢のあるお話なので、

キラキラ光る素敵回答を繰り出したいと思う反面、

考古学的にわかっている事実は冷たいものです。よくあること。

両者が同じ時期に流行したことは間違いありません。

でも、それ以上となると、互いの関係はよくわからないというのが実態です。

なんせ、火焔型土器の消費地はほとんど新潟県内に収まるのに対して、

ヒスイ製の装飾品は北は北海道、南は沖縄までわたってました。

火焔型土器を閉鎖的と言えるならヒスイは実に開放的。


こういうと、両者の対照的な役割が、

実は補完しあう関係に置かれていた可能性を暗示するかのようです。

でも、

ヒスイ製装飾品の生産地は糸魚川であって、

火焔型土器の中心は信濃川流域。中心にズレがあるのです。

信濃川流域の人々は、むしろヒスイ製装飾品の受け手の立場です。

どういうことなのでしょうか。

そんなわけで、火焔型土器とヒスイとの美意識のつながりは、

いまだ霧に包まれている、というところです。


もちろん、この霧を払うための個人的な腹案は、秘密です。

そんな案が本当にあるかどうかも、秘密です。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 17:52| Comment(0) | 日記