2018年06月05日

No.6と書いてナンバーロクと読む

最近「2度寝すると十分睡眠が取れる気がする」という自己暗示をかけて、本当にそうなりかけている学芸員Aです、みなさんこんにちは。

東京国立博物館さんの広報力はすごいものがあります。

スクリーンショット 2018-06-05 17.29.37.png

だって、ウチの受付や電話で「火焔型土器が東京で展示されるんですよね、もういっちゃった?」とか、「東京にいっちゃってて今は見られるんですか」とか、そんな質問をたびたび頂戴するからです。

東京に行っちゃうから今のウチ見ておきたい、そういう方もおられるのかもしれません。もちろんご来館の理由はわからないのですが、東京国立博物館さんの広報のおかげでいろいろ助かっているような気がします。ありがたやありがたや。

で質問を受けるたび、

 国宝の火焔型土器は14点もある

 国立博物館に出かけるのはそのうちのナンバーロク

 有名なナンバーワンはここにある

ということを正確にお答えすることがたくさんあるのですが、ふと気づくことは、「ナンバーシックス」と言わずに「ナンバーロク」といっても怪訝な顔をされたりしないということ。ナンバーロクという言い方は英語と日本語のチャンポンなわけですが、気にされる方はいらっしゃらない。なんでだろう。なんでだろう。

もしもナンバーシックスと言ってみたらどういう反応があるのでしょうか・・・ちょっと興味が湧いてきました。

今後もし、窓口で「ナンバーシックス」と説明された方がいらっしゃっても、それは「実験台」にされたとかでは全くなく、英語を話しそうで且つ知性あふれるレディース&ジェントルマンな方とお見受けしたから、ということですから、どうか全然、微塵も、毛ほども気にしないでくださるようお願い致します。

なお、ナンバーワンの展示期間は、ここにあります。次の展示はこのようになります。

 7月21日(土曜日)〜9月17日(月曜日)

大地の芸術祭と丸かぶりです。芸術祭にお越しの方は、ぜひナンバーワンを見ていってほしいと思うわけです。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 17:37| Comment(0) | 日記

2018年06月01日

縄文サミット2018

みなさんこんにちは、

デスメタルのCDを持っている学芸員Aデス。


ところで先日、長岡市で「縄文サミット」なる催しがありました。

「一緒に縄文文化押しで盛り上がろうぜベイベ」的な近隣自治体連合の首長が集まって、

ランチミーティングなどするというお洒落な会です。

実際のところどんな話で盛り上がるのかというと、

おもに「縄文文化について盛り上がろうぜベイベ」的な会話をし

・・・・

いや嘘です。ベイベとか言うわけありません。

とてもこのノリでは言えない、というか言ってはいけないくらい

真面目なミーティングなのです。


「ランチ」と付くだけあって、お昼ご飯を食べながらになるのですが、

いったいどんなご飯が出てくるのだろうと偵察するため、

ワタクシだけは弁当持参でひっそりこっそり覗き見に行ってきました。

どんなご飯なんだろう・・・・コソコソ・・・

ところが!!!

なんと!!!!



自分のを食べるのに夢中で見るのを忘れていた!



しまった。大事な任務だったのに。すみません、●長。

来年またトライすることを誓いつつ、お詫びします。


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真面目なお話でした(あたりまえ)

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盛会でした

学芸員A
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posted by 十日町市博物館 at 16:10| Comment(2) | 日記

2018年05月23日

越後縮の始まりのこと 2

みなさんこんにちは学芸員Aです。

博物館は新館建設を前にして、多方面に動きが激しくなってきて、慌ただしい毎日です。

それはそうと、昨年の夏、「美しいキモノ」という雑誌にこういう記事が掲載されていました。

長いですが、引用します。

「堀次郎将俊」。伝説上の人物のように語られますが、そうではなく、江戸初期、播州明石藩の城主・松平信之の治世下(万治2年、1659年着任、在城21年。)の家臣でれっきとした侍。侍でありながら織物の心得があり、城下の「茶園場」(図3)の入り口に織り場を設けて、盛んに織物を研究したことが「明石市史」に記されています。この基になった文献は大正時代の儒学者・橋本海関(日本画家・橋本石雪画伯の父)の記した『明石名勝古事談』。松平家治世になる30年ほど前、信濃・松本城主から移った明石城初代城主小笠原忠真の頃、船大工の娘・お菊という利発な子が、父親が鉋で削る木くずのちぢれているのを見て、糸を撚ることを思いつき、「縮織り」を考案開発したというのです。これ以降、縮織物は播州明石の名産となり「明石縮」として名声を得ます。


引用終わり(みやざわきみこ 2017 『美しいキモノ』 2017年夏号,242ページより)


越後縮の始まりについては少し前に書いたので繰り返しませんが、堀次郎将俊が「伝説上の人物のように語られ」ているというのがワタクシの記事のことのような気がするという被害妄想が湧き出てもやもやしてきたので少し触れておきます。


堀次郎将俊が明石藩の家臣で、織物を研究していたことは事実でしょう。明石次郎なる人物が明石から魚沼郡あるいは小千谷へ来て縮を伝えたというのも事実かもしれません。しかし問題は堀次郎将俊と明石次郎が同一人物であるという証拠がないことなのです。


たとえば会津藩の調査(1803-1809年発行)では、縮の技術を伝え開発したのは「竹屋某」(たけやなにがし)と書かれ、名前さえ不確かでした。姓名を持つ人物(武士)の名前が藩(行政)の調査で不確かということがあるでしょうか。また、明石藩の家臣が一家(妻一人と娘二人)を連れて藩を離れるにはそれなりの手続きが必要であり、移住先の藩の受け入れも必要です。手続きがなければ脱藩(違法)です。17世紀前半においてそれが容易だったでしょうか。


宮澤先生が挙げている橋本海関(はしもとかいかん)さんは1852年の播磨生まれで、1935年没。『明石名勝古事談』は1920-1933年(大正9年〜昭和8年)に刊行されました。「堀次郎将俊」という名前の記録が魚沼郡で初めて登場するのは死後180年も経った1847年のことで、橋本さんが生まれたときにはすでに堀伝説ができていました。『明石名勝古事談』は堀伝説を聞いて書いたとも考えられるため『明石名勝古事談』が堀伝説の確かさを保証する材料としては扱えないわけです。


だからいま検証すべきことは、以下の二つの独立した事柄の関係であることは今も変わらないのです。確認です。


 1)お菊が思いついて開発→明石縮の誕生→名産になり、堀次郎将俊が研究

 2)明石から来た明石次郎が小千谷に移住→麻織物に転用、発展


なお、明石藩主の小笠原家が九州の小倉藩に異動となって(1632年)、明石縮の技術を移植して小倉縮を生み出しました。のちに1932年(昭和7年)には年間生産数21万反になったといいますから、十日町が越後縮の後に開発した絹織物の「明石ちぢみ」のライバルのひとつになっていました。同年の十日町の生産数は27万反でした(キラーン☆)。


ここには、二つのラインがあったということを覚えておきましょう、もとい自分のため。


 ・明石の明石縮→小倉縮

 ・明石の明石縮→越後縮→ 〜 →十日町明石ちぢみ


 *「〜」は誤魔化しです。


桐生と足利の動向については永遠に勉強中ですのでグーパンチなしでお願いします。



学芸員A

posted by 十日町市博物館 at 15:45| Comment(0) | 日記