2018年04月12日

ひきりうす、ひきりぎね

みなさんこんにちは学芸員Aです。

ちょっとまえに、石川県の有名な縄文時代遺跡「真脇遺跡」の出土品の中から「火きり臼」が見つかったというニュースが流れました。

毎日新聞さん
縄文人の火おこし道具 3300年前、板にくぼみ 石川」

「何それ」と思ってその内容を見て「え、あ、そうなのか」と驚きました。

まず火起こしするときの台になる道具、その名前が

ひきりうす

だということ。

浅学にもほどあがるわけですが、そこは気にしないまでも気づかないフリでお願いします。

そして2番目に驚いたのは、

縄文時代で2例目

という事実。

「首都大の山田先生が言うのだから間違いない」などと、

権威にすがってはいけないわけですが、もしそれが2例が20例の間違いであっても、

数万箇所はあるだろう縄文時代石の中では非常に少ないことに変わりないので、

たいへんすごいすごい貴重な出土品なわけです。


で、この「ひきりうす」。

漢字で書くと「燧臼」一発変換すごい。

新聞記事では「火きり臼」ってなってたけど、火鑚臼ってのがそれでしょうか。

この真ん中の難しい字は、「錐」のことみたいですね、なるほど。

次にじゃあグルグルするほうの棒はなんというかというと、


ひきりぎね


だそうです。マジすか。漢字は燧杵。火鑚杵。臼に対して杵。

おお・・・!

どなたか、あまりにも分かり易過ぎたときの良い驚き方を教えてください。

で、これらの漢字がわかったところで、こんな記事がヒットしました。


文化庁さんの文化遺産オンラインです。

データベースを見ると、

国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」とされているようです。

愛知県では県の無形民俗文化財になってますね、ちゃんと。

長野では・・・は、またいずれ(調べない予感)。


そういえば、笹山じょうもん市の開会セレモニーだったかで、

巨大な燧臼と燧杵をつかって火を起こし、

火種を持って住居の中に火を灯すっていうことをやっていたことを思い出しました。

アレってもしかしてコレにあやかっていたんでしょうか。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 14:48| Comment(0) | 日記

2018年04月09日

十日町市文化財地図

みなさんこんにちは学芸員Aです。

文化財課が「十日町市文化財地図」を発行しました。

新十日町市として合併してから、初めてのことです。

文化財の番号を地形重視の地図に載せているので、地形との関係がよくわかります。

松代・松之山の文化財は多い。

山がちなところでも沢山あるんです。なぜでしょう。

地図ってなんとなく見入ってしまうものですね。

IMG_2383.JPG
(左が表、右が裏。斜めですみません。)

裏面には、棚田の水面に主要な文化財の写真を配置。

古くからずっと営まれてきた田んぼと、

文化的歴史の結晶たる文化財とが象徴的に重なりあいます。

じ〜〜〜っと見ていると、なにか心にグッとくるものがあるのは、

気のせいでしょうか。


右上に、2人の人影が描かれているのが分かりますか。

異獣(いじゅう)と竹助(たけすけ)ですね。

知る人ぞ知る十日町の重要キャラです。異獣がかわいいです。


各文化財の位置は、地図上ではザックリしていますが、

リストには緯度経度座標を掲載しています。

これを google map で検索すると、その場所が明確に分かる仕組みになっています。

検索フォームにカンマで区切って入力すると、該当する場所にピンが立ちます。

カーナビよりもネット向きな文化財地図になりましたが、みなさんいかがでしょうか。

ちかぢか、公共施設などに配布することになりますので、入手してみてください。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 18:45| Comment(0) | 日記

2018年03月29日

茂十郎の透綾

みなさんこんにちは、フルーツ缶詰のシロップは全部飲む派の学芸員Aです。

十日町市市民交流センター「分じろう」の1階に、

文化歴史コーナーというルームがあります。

ここは通称HAKKAKE(はっかけ)といいまして、

博物館の収蔵品1点のなかから「これは面白いよ」というものを出してきて、

定期的に入れ替え展示しているんですよ、という場所です。

2017-03-24_bunjirou.jpg

で、三月二八日から、って変換が漢字になったことに特に意味はないわけですが、

この日から約2ヶ月間は、こういうものを展示しています。


茂十郎の透綾

251.jpg

もじゅうろうのすきや、と読みます(たぶん)。

茂十郎さんが自分で織ったという織物の裂地(きれじ)を展示しています。

「茂十郎、誰それw」的に思われるのも無理はありませんが、

諏訪神社の麓に「宮本茂十郎」の顕彰碑が立っていますから、

この地域ではメジャーな人であることに違いありません。

だって、顕彰碑が立つほどの功績って、どうですか。

ワタクシなら自分の顕彰碑が立つかどうかを想像することすらおこがまい感じです。

このお方が果たした十日町の織物産業にとっての功績の大きさ、計り知れなさは、

その辺りから想像していただくといいかもしれません。


茂十郎は、「越後縮」で隆盛を誇った十日町に、絹縮(=透綾)の技術を伝えたり、

それを折るために必要な高機(たかばた)の製法を伝えたりしたといいます。

高機っていうのは、椅子に腰掛けて織るタイプの織り機のことで、

多層織りの必需品でした。複数の綜絖を使えるからです。

それまでの地機(じばた)=いざり機では、2層の平織りしかできなかったんです。


tidimi_06.png
【地機】


のちに絹織物である「明石縮」で再び隆盛を誇る十日町の織物産業にとって、

この高機の導入と絹縮の生産は非常に重要な意義がありました。


ところが、この茂十郎なる人物は、その来歴・素性がよくわかっていません。

京都の西陣から来たとか、上野の桐生にいたとかいわれています。

京都は江戸時代から、というか古代からずっと織物の最先端地域で、

すべての技術はここからと言えるくらいすごいところだったのですが、

江戸時代に西陣から技術と職人が流出していき、

その影響下に、(京都よりも)江戸に近い桐生が第2の先端地域になりました。

実際、高機の導入は、十日町よりも100年くらい早かったようです。

で、その桐生でも技術と情報が溢れかえって、外部に流れていきます。

よく知られているのは常陸の足利。桐生の隣接地域です。

で、そういう余波があちこちに及び、越後の十日町あたりにもやってきた。

それが職人・茂十郎。

十日町の中でも「丸屋」(屋号)関係者が、

茂十郎にどうも強く関与していたらしいことがわかっています。


宮本茂十郎、と俗に呼ばれていますが、

これは顕彰碑を建てたときにつけた名前で、

諏訪様の麓、宮下に住んでいたからだと言います。

ほかには「飯塚茂十郎」というのもありまして、

これは神明町の飯塚家に厄介になっていたことがあるからだという説も。

さらには、昔は単に「茂十」と呼んでいたのに、

顕彰碑を建てるときに「キリが悪い」ということで「郎」を付け足したんだ、

という言い伝えもあったりして、もはや何が本当かわかりません。


一つ言えることは、制度的な面からすれば、

江戸時代に武士や公家でなければ正式な苗字を持っている人はいなかったわけで、

飯塚でも宮本でもそれは通称に過ぎないんじゃないか、ということ。

だから、茂十または茂十郎くらいがちょうどいいんじゃないかと思いますが、

顕彰碑を建てた人たちはきっと何か思うところがあったのでしょう。


で、茂十郎は、十日町には2年くらいしかいなくて、

またどこかへ行ってしまって、消息が分からない。

来た時から独身だったようですから、気ままに流浪していたのかもしれません。

だからこそ茂十郎は伝説的な人物になるんですが、

面白いことに、かれが自分で織ったという織物の欠片、「裂地」が、

いま残っているというから驚きです。

Unknown.jpeg
【裂地】

例えて言うなら、アーサー王のエクスカリバーが実在したみたいな話、

いや、というか、

エクスカリバーは別にアーサー王が造ったわけじゃなくて抜いただけですから、

そういう意味では裂地のほうが遥かにすごいといえるんじゃないでしょうか。

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【裂地の貼ってある雛形帳の表紙】


ここで「おいおいおいおい」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえて、

「エクスカリバーよりすごいかもしれない裂地」を見に、

HAKKAKEにGO!GO!!してほしいと思う今日この頃です。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 18:24| Comment(0) | 日記