2019年03月10日

十日町市高山の八幡社

みなさんこんにちは学芸員Aです。

そろそろ異動の内示が出る季節、もうこれでお別れかもしれないと思うと寂しい気持ちでいっぱいです。

それならば、最後の投稿はせめて皆さんの役に立つまともな情報にしよう!と決意し、いろいろ考えあぐねて、今回はこれにしました。

 高山の八幡社ってな〜に。

そんなこと誰も気にしていないよ、と思うかもしれませんが、さにあらず。少なくとも一人は知っています。

ワタクシです(どーん)

いや、それは冗談ですが、きっとほかにも知りたいという人がいると思うので、いつかその検索に引っかかることを祈って転載するものです。調べ物をするとき大変なのはいつだって「元情報をたどること」。その労苦は痛いほどわかります。だからその役に立ちたいのです。

八幡社は、十日町市中心市街から南西方向にちょっと行った辺り、「高山」にある神社。


見た目は小さいですが、古くからあり、十五夜祭のときに村芝居をすることで市内では有名です。

E58699E79C9F-16.JPG


八幡社については、大正8年(1919年)刊の中魚沼郡郷土誌に書かれていました。ほぼ転載させていただきます。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

八幡社

大字高山にあり、境内坪数281坪、祭神応神天皇、神功皇后、玉依姫命、豊城入彦命、少彦名命、創立年月不詳、或い云う、享保元年山城国男山より勧請すと、明治40年5月、赤城社、金矢神社を合併す、大正2年4月25日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる、例祭9月15日。

社記に云、往昔は琵琶懸(びわかけ)にあり、仁安2年(注:1167年)、本間義秀平家の名に依り、来りて琵琶懸に城き、以て越中に備ひ、守護神として、本社を建つ、文治3年(注:1187年)源義経の奥州に下るや、之に与して、城を焼かれ、本社も亦池魚の災に遭ふ、羽川某刑部居るに及びて、また崇祀す、正平21年(注:1366年)、長尾家代り居るや、太刀2口を納む、其の裔安久というもの、上野の兵と戦い、敗れて社も亦兵燹に罹り、後此の地に移る。
随神2体あり、俗に之を五郎十郎と称す、何の謂たるを知らず、木像木理堅緻にして、淡茶褐色を帯び、面部に粉彩の痕を存す、重量極めて軽し、伝え云う一は、本社創立の際に成り、它(また)は其後の作なりと、刀法なりと雖ども、彫刻共に古雅、蓋(けだ)し凡手にあらず、其仏師の言によれば、六百年内のものに非ずと、再度の灾(さい)を免れて今に存す。
猶境内に、白山社祭神伊邪那美尊、稲荷社2社、共に祭神蔵稲魂命、市杵島社祭神市杵島姫命、春日社建御雷命、妻有社祭神建名方冨命、八坂刀売命の数社あり。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
中魚沼郡教育会編 1973年 中魚沼郡誌【復刻版】 上巻 451頁より(漢数字を横書きに合わせてアラビア数字にし、一部の旧字体を改めた。また一部に括弧書きでふりがなを加えた。和暦年に西暦年を追加した。)

もとより伝説的な内容ですが、興味深いことがかかれていることに気がつきます。

まず、元は琵琶懸(びわかけ)にあったといってます。琵琶懸は、いま「城之古」(たてのこし)のあたりで、「琵琶懸城」の跡がいまでもあります。12世紀中頃にそこに建てられ、その後長尾家の子孫の「安久」というもののときに戦争がらみで焼けたので、高山に再建した、というのです。「安久」がだれかわかりませんし、琵琶懸城と長尾氏との関係も分かりません。

ただ、正平21年(応安元年)の上野の兵との戦いというと、南朝方の新田義宗(義貞の子)・脇屋義治らと、北朝方の上杉憲将(越後守護上杉憲顕の嫡男)らとの戦いのことかもしれません。このとき、新田義宗は戦死して、南朝方の勢力は衰退、守護の上杉氏と守護代の長尾氏の体制が固まり、在地の新田一族は上杉氏の家臣団に編入されていきました。このタイミングで八幡社が高山に移された、と社記は主張しているのだと思います。

二つ目に、五郎十郎というふたつの像があるということ。普通、神社に像はないはずですが、それがある。なんでしょう、さっぱりわかりませんが、見てみたいものです。これがもし曾我十郎五郎であれば、仇討ち話が有名です。頼朝の伊豆時代の家来である河津三郎祐泰が、同じく家来の工藤祐経の一味に暗殺されたことを恨み、河津三郎祐泰の息子兄弟である十郎と五郎とが仇討ちするというもの。江戸人がすきそうです。

この木像、仏師の意見では相当古いとのことですが、どうなのでしょうか。山梨県南アルプス市では市の指定文化財になっています。八幡社に今もあるのか、気になります。

三つ目に、境内に春日社があったということです。現在はありません。高山の東に「春日町」という今は住宅地になっている地域があります。何か関係があるのかもしれません。

そんなこんなで、いろいろおもしろいことが分かります。焼けたりしたのはどうにもなりませんが、次の高山八幡の十五夜祭にでもお邪魔して、関係の方々に聞いてみたいものです。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 15:10| Comment(0) | 日記

2019年02月21日

HAKKAKEのネーミングとシンボルマークについて

みなさんこんにちは学芸員Aです。

博物館にご興味を持っていただく方がいるのは大変ありがたいことで、博物館のみならず、まちなかにある「分じろう」内の展示ルーム「HAKKAKE」についてまでご関心を抱き、さらにご質問をいただくこともあったりします。

ちょっと前のことですが、HAKKAKE(はっかけ)の由来についてのご質問をいただきました。

「あれってどういう意味?」

大体は、おおよそのところでお答えさせていただいてますが、実は展示室の入っていただくと詳しい解説が書いてあります。全文引用してみます。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

HAKKAKEについて

ここは十日町市の文化と歴史を伝える逸品を市民に紹介する展示室です。
展示室には博物館にある膨大な資料のなかから1点ずつ館外に持ち出して、それぞれ約2か月間展示しています。みなさんにとってはその都度、十日町市の文化をほんの少し垣間見るだけになるかもしれません。しかし「垣間見えるもの」が全体の美しさを醸し出すこともあります。十日町の伝統文化のなかでいえば、着物の「八掛(はっかけ)」がそれにあたると謂えるでしょう。着物の裏地としてしつらえる控えめな色彩の八掛は、着る人の動きに伴って裾や袖からほんのわずかに見えることによって、艶やかな着物とのコントラストを生み出し、着物と着る人とを美しく引き立てるのです。
この展示室のなかにあるわずか1点の品物が、かつて十日町市の社会・文化を担った先人たちの「美」を引き立てていると感じていただけるなら幸甚です。

十日町市博物館長

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2017-04-28_10.11.2.jpg

着物の八掛にかけているんです。

かけていてもそのものではないので、文字表記をずらしてHAKKAKE。

なるほど〜〜〜!と思っていただけたら嬉しいですが、感じ方は人それぞれ、いかがでしょうか。

あと表看板にシンボルマーク、「8」の一部が欠けたやつもありますけど、こちらは解説とかありません。

訊かれたことはありませんが、勝手に補足しておきたいと思います。


まず「8」の一部が欠けていますから、これでハッカケなんだとお分かりいただける、と思いますたぶん。

ダジャレは否定しませんが、これだけではありません。ちゃんとした意味があります。

「八掛」にもある数字の「八」は末広がりの形から連想して縁起のいい数字ともいいますけども、より古くは果てしなく多いとか大きいことを示し、それゆえに神聖性を強調するためにも使われてきました。古いと言っても縄文まではいかないとは思います。中国由来かなと思ったりもします。HAKKAKEのマークがアラビア数字の「8」を用いるのは、この数字としての意味にしたいがためです。「八」にそなわる「末広がり」から解放しているのです。

そうしたうえで、一部を欠けさせることで、実は「有限」を表現しています。なぜ有限なのでしょうか。ここに展示する文化財や文化遺産は無限にあるわけではありません。だから限りある財産であることを表示し、それゆえに大切にしたい・していただきたいとの思いが込められているのです。

へ〜へ〜へ〜(3へえ) 

安直にみえて、意外と一生懸命考えた結果なのです。

シンボルマークの象徴的な意味の捉え方は、その人やその人が育った文化的背景によって捉え方が多様ですから、上記のような意味付けのすべてが万人に納得できるとはぜんぜん思いません。上記のようにクドクド説明しても「だども・・・!」と思う方もいらっしゃることでしょう。

たとえば「縁起のいい8が欠けているからけしからん」という筋もあるかもしれませんし(そういう文化はありませんが)、あるいは「8」は西洋ではタコに通じて不吉であるという捉え方もできるかもしれません。いろいろですきっと。

色々あってよいと思います。

ただ、もしできたら、そういう多様な捉え方もあるよねという見方で、文化的価値観の多様性に気付いてもらえたらな〜などと思ったりします、たまに。だってそうすれば、HAKKAKE展示品にそなわる固有の価値を楽しめたりするのでは、などという妄想を抱いたりしているからです。

さて。

たまに真面目なお話のまましめたりしますのでご容赦ください。

・・・・っていいつつ、前回記事もそうだったような・・・

うーん、きっと病んでいるに違いないので、もうおうちに帰ろうそうしよう。。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 18:11| Comment(0) | 日記

2019年02月17日

第70回十日町雪まつり 2日目

みなさんこんにちは学芸員Aです。

十日町雪まつり二日目。

博物館では「はくぶつかん広場」を開設してテンヤワンヤの忙しさだった、、、

と思いきや、聞いたところでは「ちょうどいいくらい」だったそう。

ちょっと拍子抜けしましたが、

去年、吹雪いたせいでお客さんが激減して暇すぎたので、

その反動で期待が大きすぎたのかもしれません。


それはそうと、雪まつりは雪像がメインなので、やっぱ見ておき、、、

じゃなくて、市井を勉強するという高い目標を掲げつつ視察に赴きました。

模範的な職員です。

金曜日の夜に受賞作品の発表がなされているので、たいへん参考になりました。

市外の方は「とりあえず行く」という方も多いかと思いますが、

それだと見るべき作品に行き当たらないので、

まずはスマホでネットをチェックすることをお勧めしたいです。

受賞作品はこちら

あれもこれもというわけにはいかないのでピンポイントで見に行ったのはこれ。

新座第4の会場の作品。王家2千年の夢。

51933356_2056232351121505_671878115118546944_n.jpg

52016976_2056232311121509_9104425498867400704_n.jpg

51983520_2056232301121510_7978496059829649408_n.jpg

たまたまですが、県知事賞を受賞していました。壮大な作品です。

遠近感を出すために向こうにあるものを小さく作るという工夫が効果的。

ここは前にもそういう演出をしていて感激した覚えがあります。


ほかにも、高位の賞を取っている、迫力ある作品を拝見しました。

が、架空とはいえ災害を扱うもので、考えさせられました。

2019-02-17_yukimaturi2.jpg

製作者の意図はわかりようがないとき、どう考えればいいのか。

「単なる娯楽といえばそれまで」なのか、どうなのか。

やっぱりこれも「展示」のひとつなんだと、思い直したのです。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 16:35| Comment(0) | 日記