2018年05月23日

越後縮の始まりのこと 2

みなさんこんにちは学芸員Aです。

博物館は新館建設を前にして、多方面に動きが激しくなってきて、慌ただしい毎日です。

それはそうと、昨年の夏、「美しいキモノ」という雑誌にこういう記事が掲載されていました。

長いですが、引用します。

「堀次郎将俊」。伝説上の人物のように語られますが、そうではなく、江戸初期、播州明石藩の城主・松平信之の治世下(万治2年、1659年着任、在城21年。)の家臣でれっきとした侍。侍でありながら織物の心得があり、城下の「茶園場」(図3)の入り口に織り場を設けて、盛んに織物を研究したことが「明石市史」に記されています。この基になった文献は大正時代の儒学者・橋本海関(日本画家・橋本石雪画伯の父)の記した『明石名勝古事談』。松平家治世になる30年ほど前、信濃・松本城主から移った明石城初代城主小笠原忠真の頃、船大工の娘・お菊という利発な子が、父親が鉋で削る木くずのちぢれているのを見て、糸を撚ることを思いつき、「縮織り」を考案開発したというのです。これ以降、縮織物は播州明石の名産となり「明石縮」として名声を得ます。

 さて、堀次郎将俊は明石名産の縮織りを研究していたようで、橋本海関説によると、「堀将俊は、上質の縮を得るためには雪が必要だと考え、家族での越後行き」を決行したというのです。品質の向上のために雪が必要なのは絹でも木綿でもなく麻のみです。堀将俊は、越後・小千谷を目指して…省略…ついに「越後縮」を完成させたと伝えられます。


引用終わり(みやざわきみこ 2017 『美しいキモノ』 2017年夏号,242ページより)


越後縮の始まりについては少し前に書いたので繰り返しませんが、堀次郎将俊が「伝説上の人物のように語られ」ているというのがワタクシの記事のことのような気がするという被害妄想が湧き出てもやもやしてきたので少し触れておきます。


堀次郎将俊が明石藩の家臣で、織物を研究していたことは事実でしょう。明石次郎なる人物が明石から魚沼郡あるいは小千谷へ来て縮を伝えたというのも事実かもしれません。しかし問題は堀次郎将俊と明石次郎が同一人物であるという証拠がないことなのです。


たとえば会津藩の調査(1803-1809年発行)では、縮の技術を伝え開発したのは「竹屋某」(たけやなにがし)と書かれ、名前さえ不確かでした。姓名を持つ人物(武士)の名前が藩(行政)の調査で不確かということがあるでしょうか。また、明石藩の家臣が一家(妻一人と娘二人)を連れて藩を離れるにはそれなりの手続きが必要であり、移住先の藩の受け入れも必要です。手続きがなければ脱藩(違法)です。17世紀前半においてそれが容易だったでしょうか。


宮澤先生が挙げている橋本海関(はしもとかいかん)さんは1852年の播磨生まれで、1935年没。『明石名勝古事談』は1920-1933年(大正9年〜昭和8年)に刊行されました。「堀次郎将俊」という名前の記録が魚沼郡で初めて登場するのは死後180年も経った1847年のことで、橋本さんが生まれたときにはすでに堀伝説ができていました。『明石名勝古事談』は堀伝説を聞いて書いたとも考えられるため『明石名勝古事談』が堀伝説の確かさを保証する材料としては扱えないわけです。


だからいま検証すべきことは、以下の二つの独立した事柄の関係であることは今も変わらないのです。確認です。


 1)お菊が思いついて開発→明石縮の誕生→名産になり、堀次郎将俊が研究

 2)明石から来た明石次郎が小千谷に移住→麻織物に転用、発展


なお、明石藩主の小笠原家が九州の小倉藩に異動となって(1632年)、明石縮の技術を移植して小倉縮を生み出しました。のちに1932年(昭和7年)には年間生産数21万反になったといいますから、十日町が越後縮の後に開発した絹織物の「明石ちぢみ」のライバルのひとつになっていました。同年の十日町の生産数は27万反でした(キラーン☆)。


ここには、二つのラインがあったということを覚えておきましょう、もとい自分のため。


 ・明石の明石縮→小倉縮

 ・明石の明石縮→越後縮→ 〜 →十日町明石ちぢみ


 *「〜」は誤魔化しです。


桐生と足利の動向については永遠に勉強中ですのでグーパンチなしでお願いします。



学芸員A

posted by 十日町市博物館 at 15:45| Comment(0) | 日記
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