2018年03月29日

茂十郎の透綾

みなさんこんにちは、フルーツ缶詰のシロップは全部飲む派の学芸員Aです。

十日町市市民交流センター「分じろう」の1階に、

文化歴史コーナーというルームがあります。

ここは通称HAKKAKE(はっかけ)といいまして、

博物館の収蔵品1点のなかから「これは面白いよ」というものを出してきて、

定期的に入れ替え展示しているんですよ、という場所です。

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で、三月二八日から、って変換が漢字になったことに特に意味はないわけですが、

この日から約2ヶ月間は、こういうものを展示しています。


茂十郎の透綾

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もじゅうろうのすきや、と読みます(たぶん)。

茂十郎さんが自分で織ったという織物の裂地(きれじ)を展示しています。

「茂十郎、誰それw」的に思われるのも無理はありませんが、

諏訪神社の麓に「宮本茂十郎」の顕彰碑が立っていますから、

この地域ではメジャーな人であることに違いありません。

だって、顕彰碑が立つほどの功績って、どうですか。

ワタクシなら自分の顕彰碑が立つかどうかを想像することすらおこがまい感じです。

このお方が果たした十日町の織物産業にとっての功績の大きさ、計り知れなさは、

その辺りから想像していただくといいかもしれません。


茂十郎は、「越後縮」で隆盛を誇った十日町に、絹縮(=透綾)の技術を伝えたり、

それを折るために必要な高機(たかばた)の製法を伝えたりしたといいます。

高機っていうのは、椅子に腰掛けて織るタイプの織り機のことで、

多層織りの必需品でした。複数の綜絖を使えるからです。

それまでの地機(じばた)=いざり機では、2層の平織りしかできなかったんです。


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【地機】


のちに絹織物である「明石縮」で再び隆盛を誇る十日町の織物産業にとって、

この高機の導入と絹縮の生産は非常に重要な意義がありました。


ところが、この茂十郎なる人物は、その来歴・素性がよくわかっていません。

京都の西陣から来たとか、上野の桐生にいたとかいわれています。

京都は江戸時代から、というか古代からずっと織物の最先端地域で、

すべての技術はここからと言えるくらいすごいところだったのですが、

江戸時代に西陣から技術と職人が流出していき、

その影響下に、(京都よりも)江戸に近い桐生が第2の先端地域になりました。

実際、高機の導入は、十日町よりも100年くらい早かったようです。

で、その桐生でも技術と情報が溢れかえって、外部に流れていきます。

よく知られているのは常陸の足利。桐生の隣接地域です。

で、そういう余波があちこちに及び、越後の十日町あたりにもやってきた。

それが職人・茂十郎。

十日町の中でも「丸屋」(屋号)関係者が、

茂十郎にどうも強く関与していたらしいことがわかっています。


宮本茂十郎、と俗に呼ばれていますが、

これは顕彰碑を建てたときにつけた名前で、

諏訪様の麓、宮下に住んでいたからだと言います。

ほかには「飯塚茂十郎」というのもありまして、

これは神明町の飯塚家に厄介になっていたことがあるからだという説も。

さらには、昔は単に「茂十」と呼んでいたのに、

顕彰碑を建てるときに「キリが悪い」ということで「郎」を付け足したんだ、

という言い伝えもあったりして、もはや何が本当かわかりません。


一つ言えることは、制度的な面からすれば、

江戸時代に武士や公家でなければ正式な苗字を持っている人はいなかったわけで、

飯塚でも宮本でもそれは通称に過ぎないんじゃないか、ということ。

だから、茂十または茂十郎くらいがちょうどいいんじゃないかと思いますが、

顕彰碑を建てた人たちはきっと何か思うところがあったのでしょう。


で、茂十郎は、十日町には2年くらいしかいなくて、

またどこかへ行ってしまって、消息が分からない。

来た時から独身だったようですから、気ままに流浪していたのかもしれません。

だからこそ茂十郎は伝説的な人物になるんですが、

面白いことに、かれが自分で織ったという織物の欠片、「裂地」が、

いま残っているというから驚きです。

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【裂地】

例えて言うなら、アーサー王のエクスカリバーが実在したみたいな話、

いや、というか、

エクスカリバーは別にアーサー王が造ったわけじゃなくて抜いただけですから、

そういう意味では裂地のほうが遥かにすごいといえるんじゃないでしょうか。

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【裂地の貼ってある雛形帳の表紙】


ここで「おいおいおいおい」と言いたくなる気持ちをぐっとこらえて、

「エクスカリバーよりすごいかもしれない裂地」を見に、

HAKKAKEにGO!GO!!してほしいと思う今日この頃です。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 18:24| Comment(0) | 日記

2018年03月19日

チンコロは食べたい

みなさんこんにちは、

文化に親しみを持ってもらうための商品にいつも目を光らせている学芸員Aです。

毎日のように見つけては心のダイアリーに記録し続けているのですが、

「ネタ」としてここに披露するにはなかなか至らず、

そろそろ吐き出したい!

と思った頃には忘れているという悪循環を毎日のように繰り返しています。


なので、今日は、仕入れたその日に出荷してみようと決めました。

本日のネタはこれ。

朝日新聞さん

なかなかエグい、もとい素晴らしい出来です。話題性抜群。ほしい。

今までも、こんなのを紹介してきました。

 伊豆半島ジオパークのジオ菓子

 世界遺産富岡製糸場の蚕チョコレート

 世界遺産八幡製鉄所の鉄サビ味の飴

我ながら珠玉のコレクションです。行ったら必ず食べると心に決めています。

「行ったことがない」という衝撃の事実については要スルーです。

今回のオオサンショウウオも、このラインナップに加えることになりました。

おめでとうございます(なぜか上から)。

こんにゃくですから、料理に使えるところが二重丸です。


十日町では、まだこれといった話題性のあるお菓子はデビューしてない、

ような気がします。少なくとも全国区ではないと思います。


これはチャンスです。

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そういえば、先日ある人が十日町に遊びに来て、クロステンでチンコロをみつけて、

店員さんに聞いたそうなんです。

 「チンコロは食べられますか」

 「食べられないですね」

 「えー!?・・・ほんとうに!?」

そういえばワタクシも最初見たときは「食べるもの」と思いましたし、

食べないと知ったときはがっかりしました。なんでも食べられる方が好き。

誰でもそう思うのかもしれない、、、、、いや思うに違いない!

と妄想気味に考えたりしていたのですが、

ちょっと冷静になって思い返してみたら、衝撃の事実が発覚・・・!


なんと、上記の「ある人」は、




ワタクシの親でした。




こういう参考くらいにしかならない記録を、「追い風参考」っていうんでしたっけ(ちがう)。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 16:22| Comment(0) | 日記

2018年03月17日

第11回カムバックサーモン

みなさんこんにちは学芸員Aです。

十日町市で冬に使える公園ってなかなかないのですが、強いて挙げるとすればここ!

下条地区にある神明水辺公園。

雪が積もっている中で何に使えるかというと、

鮭の稚魚の放流。

例年行っているカムバック・サーモン事業に今年も下条(げじょう)小学校の児童が参加してくれまして、校区を流れる貝野川に一緒に放流しました。

神明水辺公園は、公園内に、川面に接近するための緩い坂道がつけられていて、雪が積もってもある程度使える便利な場所なのです。「なるべくなら川に近づいて欲しくない」という最近の風潮もあるかもしれませんが、そういう意味でも貴重な公園です。

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この事業は、十日町市も参加している信濃川火焔街道連携協議会が中魚沼漁協さんから稚魚を購入し、小学校に飼育や放流などを行ってもらうというものです。

昔の人々の生活は川と密接でした。たとえば川漁。鮭を取ることももちろんその一つ。たぶん縄文時代からずっと続いていたはずです。

宮中ダム、西大滝ダムが出来て私たちの生活は飛躍的に便利になったのだろうと思います。ですがその一方で、大量に取水(水は川ではなく山の中の巨大な管のなかを通っています)されることで、川の環境は一変し、鮭がいなくなったので漁はできなくなりました。

でも、私たちの生活はいつも自然に依存していて、これからも一体であり続けるだろうと思います。そういうことを身をもって体感することはとても大切。カムバック・サーモン事業は、鮭の卵や稚魚の飼育から放流を通じて、自然の営みと自分たちの生活とがいろんな意味でつながっていることを子どもに伝えつづけています。

お陰様でもう11回目を数えており、その甲斐あってか信濃川の支流に戻る鮭の数も年々回復の兆しを見せています。
漁協さんによると、帰ってくる稚魚の割合はなんと0.03パーセントくらいとか。児童の中から「うひゃー」という声が上がりました。ワタクシもそう思いました。1万匹に3匹くらい・・・なんとも厳しいですね。でももう10年以上になりますから、きっといずれは貝野川にも上がってくることを願っています。その日がとても楽しみです。

ことしも新聞記者さんが取材に見えました。放流するだけでもするべき作業はいろいろあるもので、手が足りない現場の雰囲気がそうさせるのか、記者さんもいろいろとお手伝いをしてくださいました。ここにはいつも、子どもを見守る大人の気持ちが集まります。感謝です。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 11:53| Comment(0) | 日記