2016年12月23日

十日町大火は明治33年

みなさんこんにちは、学芸員Aです。

1980年2000年に、「市報とおかまち」で十日町大火の特集を組んでいました。

十日町大火は明治33年、1900年6月10日に発生した、

十日町の総戸数1040戸のうち712戸が焼ける大火災でした。

この火事で中心市街地は文字通り焼け野原のようになりました。

火元となった本町1丁目の機屋(はたや)があった場所は、

いまは消防器具置き場になっているそうです。





なかでも明治13年(1880年)には6,000戸以上が焼け、

また、明治41年(1908年)には西堀通りなどで1,198戸と、

当時木造だった萬代橋まで焼け落ちてしまいました。

さらに同年、東掘り通りなどで2.076戸を焼く大火もあって、もう大変。


こうなってくるともう「新潟大火」というと、どれのことやら分からないくらいです。


十日町大火後の復興には、筆舌に尽くしがたい苦労があったと、

上記の市報に書かれています。

みなさんにも、どうかもう一度読んでいただきたいと思います。

大火災というのは、長く広い目で見ると結構あるもので、

ある意味で「身近」と捉えておく方がいいような気がします。


今年のじっぱくブログは今日で締めます。

みなさん、火元に注意しながら、よいお年をお迎えください。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 14:21| Comment(0) | 日記

2016年12月20日

トオコン2016結果発表が行われました

みなさんこんにちは、学芸員Aです。

12月17日(土)に行われたトオコン2016。



■創業部門賞&最優秀賞
「食」と「田舎」を追求した小さな旅館再生ビジネス

■第二創業部門賞&女性起業家賞
クラフトビールで町おこし 「妻有ビール」プロジェクト

■学生部門賞
「十日町かまくら焼」〜元祖「酒粕釜」による十日町市ブランディング〜


2016-12-20_tokon2016honsenkaikekkahappyou.jpg


個人的に「クラフトビール」が楽しみで発表をききに行きました。

ほかにも凄いのがあって、これは駄目かもと少し思っていましたら、

その凄い発表は最優秀賞に輝き、クラフトビールのほうは別の賞を受けられました。


発表後の審査員さんの言葉にすこしグッときました。


「十日町に地ビールがなかったのは不思議」


これは、多方面にいい言葉だと思いました。

何より、市の外部、おそらく遠くから見たときの、

十日町のもつイメージを物語っています。


「知の遠近法」


この言葉を聞いたことがあるでしょうか。

現象を近くから見ると細かいことがわかりますが、

遠くから同じもの見るときはわりと大雑把なことがわかりますね。

大雑把にわかるって変な言い方かもしれませんが、

これは「いい加減」とか「テキトー」という意味ではなくて、

見え方の違いが現象の違った面を明らかにするという肯定的な意味です。

例えばプレートテクトニクス。

島や大陸の海岸を訪れていくら見ても理解できませんが、

地球儀を手にしてみると、「この海岸線のカーブが対岸の大陸の海岸線のと似ている」

ってな具合に、どの島がどの辺と切り離されたのかがなんとなくわかります。

そして、本当に陸地が動いて切り離されたのかどうかを調べる手立てが講じることができます。

このように、見るときの遠近を「知」的に操作して、

取り組むべき方法を考えるのが知の遠近法です。


「十日町に地ビールがなかったのは不思議」

この見え方は、「知」的に「遠く」から見たイメージに基づいていると思います。

それがどのようなイメージなのかについてはここでは控えますが、

市内の人が事業を創出するときは、このような知の遠近法が意図的、

操作的に行えるかどうかがカギになるのは間違いないと思いました。


それにしても、クラフトビールの製品化はおよそ1年後とのことです。

最優秀賞を獲得された方の松之山・玉城旅館さんのブログでは、

「是非是非使いたい」との表明がありました。

もし出来上がったら、ワタクシもさっそく飲んでみたい!

できれば完成披露パーティに呼んでいただきたい!

と思ったかどうかはここでは秘密、という妄想をしました。

とにかく、今後のご発展をお祈りしているわけです。乾杯。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 10:29| Comment(0) | 日記

2016年12月19日

越後縮の始まりのこと

みなさんこんにちは、学芸員Aです。

起源論というのはいつの時代も人の心を捕えて離さない魅力があります。

このブログでも最近、「異獣」についてと、「天神囃子」について、

それぞれ勝手なことを書いてきましたが、

それはつまり学芸員Aもまた捕えられてしまった一人になったということです。


さて、今日の起源は「越後縮」です。

越後縮(えちごちぢみ)というのは、

苧(からむし)という植物の繊維から作る織物のなかで、

強い撚りをかけて織った麻布のことで、

新潟県の中でも魚沼地域を中心に生産されていたものをさします。

江戸時代に始まり、一次は隆盛を誇りましたが、明治時代には衰退し、

現在ではほぼ技術伝承のためのみ、細々と織られ続けています。

十日町市では、「越後縮の紡織用具及び関連資料」という名前で、

国の指定する重要有形民俗文化財に指定されています。


その越後縮の始まりについては、実はあまり明確なことが分かっていません。

でも、google先生に訊くと、ほぼすべてのサイトが凡そこのように言っています。


 江戸時代に播州明石の堀次郎将俊という人が小千谷市にやってきて、

 縮の技術を麻織物に応用して、これを周囲の人々に伝えた。


失礼かもしれませんが、


これ、本当でしょうか。

実はいままでにも、異論が幾度も提示されているのです。

一番まとまっていて、詳しく書いているのは900頁以上になる渡辺三省さんの大著、

「越後縮布の歴史と技術」(小宮山出版、1971年)でしょうか。

その第5章第2節(109〜116頁)の一部を要約すると、

以下のようになるかと思います。


1 『績麻録』(1800年)
播州明石の浪人で明石次郎という人が小千谷に来て、
明石で覚えた縮を織って、近くの人に教えた
(堀という字は出てこない)

2 『新編 会津風土記』(1803〜1809年)※文末参照
播磨明石より竹屋某という人が魚沼郡に来て、
縮を織り始めて、次第に広がった
(堀という字は出てこない)

3 肇巧碑の碑文の原文(1818〜1830年)
寛文年間に明石次郎という人が来て云々・・
(堀という字は出てこない)

4 明石堂再建の奉加帳(1847年)
「はりまの国明石郡より堀次郎将俊というかれ人きたりて」
(ここで初めて堀、将俊などが出てくる)

5 極楽寺の明石様の墓
「無縁墳」と彫られた墓碑がその墓とされている  「天明六年」(1786年)とある
(逝去した年は1679年とされているので、一致しない。)


上記の1と2については、小千谷市史にも書かれており、

渡辺さんも小千谷市史も、


結局よく分からないと結論しています。


要するに、播州明石から来た人が、

明石で習得した縮技術を麻織物に適用して、

周囲に伝えたことまでが確かそうな情報で、

肝心の名前ははっきりしない。


分かっていてもそれは、明石次郎・竹屋某・堀次郎将俊 的なものだったということです。


個人的には、あとだしジャンケンみたいな堀・将俊っていうのはどうかと思うのと、

寧ろ、「竹屋某」(たけやなにがし)っていう、如何にも適当な名前のほうが、

お国自慢的に書こうという意図が全くなくて、

逆に信憑性があるような気がするので、応援したい、

そんな気持ちになりました(テキトウ)。



今後はワタクシも、信用のために「某」にしたいと思います。


学芸員某

※新編会津風土記巻之百六小千谷組の項を引用したというが、実際に引用されている文章は巻之百六魚沼郡の項であって、小千谷組の項ではない。小千谷組の項は巻之百七である。会津藩の調査では小千谷の出来事として記録していなかったことになる。
posted by 十日町市博物館 at 17:36| Comment(0) | 日記