2017年12月10日

味噌玉作り

みなさんこんにちは、学芸員Aです。

十日町も寒さが冬のそれになってきて、雪がもう2度、降りました。

ところによっては雪が残っていて、もう溶けない感じのようです。

街の中心部あたりでも、次に降れば根雪になるかもしれません。


先日、十日町市里山科学館キョロロにお邪魔しました。

味噌玉作りの体験のためです。

今年の3月に出来た味噌玉を切り崩して米麹と一緒につけ込む体験をしたのですが、

その前段階の味噌玉そのものを作る体験をしたことがなかったのです。


まず、大豆を煮る。このカマをミソニガマといいます。

味噌作りが各家庭の仕事でなくなり、共同作業になってからの代物だそうです。

だからただの「鍋」じゃなく、味噌作りの専用道具なんですね。

そうか!縄文時代のデカい土器はこれだったんだ!(うそ)
2017-12-10_misodamadukuri1.jpg
ちなみに、煮るより蒸す方が含水率が低く済み、

雑菌が繁殖しづらく豆麹にとって良い環境になりやすいだろうと、

先だって専門家から教わりました。


煮た大豆は、手まわしミンチ器で崩します。
2017-12-10_misodamadukuri3.jpg
この器械はミソツブシいいますけど、

これがない時代はスッポンという藁の長靴をはいて、

桶の中で踏み潰したんですって。それは超〜〜〜〜大変。ミソツブシ万歳。

ソフトボールくらいの大きさに丸めて、藁縄をなって、吊るします。

2017-12-10_misodamadukuri4.jpg


2週間ほど乾燥させた味噌玉がこれ↓
2017-12-10_misodamadukuri5.jpg
含水率が高いためか、乾くと縮んで縄がガバガバになっています。

ヒビ割れているところにはすでに好気性の白カビや黒カビが発生しています。

火棚(囲炉裏の上の棚)に吊るすのが普通ですが、その設備がありませんので、

笹山の住居の中で燻してみたいと思います。どうなるか。

たぶんですが、若干燻製っぽくなるかもしれません。


教科書的には約1ヶ月後、味噌玉のすすを洗い落とし、臼で搗(つ)いて潰します。

塩と麹を混ぜて味噌桶に入れて密封します。

で、だいたい、秋ぐらいには味噌が出来ますが、

でも、『雪国十日町の暮らしと民具』によると、

なんと「3年ほど経ってから食べる」とあります。この差は何でしょうか。

「3年」という期間は豆麹味噌(赤味噌)のそれです。

たぶんですが、まだ足で踏んで潰していた時代のこの地域の味噌が、

限りなく赤味噌に近いものだったのではないか、ということです。

時代が過ぎて、米麹が安価に手に入るようになったことで、しだいに米麹の比率が高くなり、

期間が短縮されたのかもしれません。

(米麹の比率が高くなると白味噌に近くなっていきます。)

また、味噌玉作り自体をしないでつけ込むようになったとも書いてありました。

米麹の比率が高くなったので、豆麹を繁殖させる必要がほとんどなくなったからと推察されます。


味噌玉作りは和気藹々とした共同作業で楽しいうえに、

発酵の科学から経済の移り変わりまでも学べる、素晴らしい会でした。


漬け込みイベントにも、また参加するつもりです(平成30年3月11日)。

燻したものと燻さないものの比較も楽しみですが、

今度は米麹の比率を変えてみたい、そんな風に企んでいます。

また共同作業です。とっても楽しいですので、みなさんも是非。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 17:00| Comment(0) | 日記

2017年11月21日

「縄文展」開催決定

みなさんこんにちは、学芸員Aです。

「国宝・新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」は57点にお深鉢形土器を核とする、

出土品928点で構成されています。

深鉢形土器57点には、番号が振られており、もちろんNo.1〜57まであります。

管理上の都合から、私たちはこれらを番号で呼びならわしていて、

「ナンバー〜」と呼びます。

No.1は、ナンバーワン

ナンバーワンには、実は「縄文雪炎(じょうもんゆきほむら)」という

立派な愛称(公募してつけたもの。)があるのですが、

職員がナンバーワンと呼んでいるうちにこれが浸透してしまい、

十日町市で火焔型土器をよく知る人には「ナンバーワン」で通じるようになっています。

これが長じて、この秋、京都国立博物館の「国宝展」で展示された時は

そのチラシにも「ナンバーワン」と書かれたのでした。

もうナンバーワンの方が全国区になりそうな勢いです。


ところで深鉢形土器はNo.57まであるので、

ワンがあるなら、その後はツー、スリー、フォー・・・と思うのが人情ですが、

我が館では、違います。

ワンの次は「ニ」「サン」「ヨン」・・急に日本語。



No.6は、ナンバーロク


そう呼ばれています。

「ナンバーシックス」なんて読む方は、部外者だとわかります。

実は部外者を見分けるための符丁なのです・・・なんてことはありません。

なぜ日本語になのでしょうか。

結論的に言うと、なぜかはわからないのですが、ヒントが幾つかあります。

2人の職員の言葉を拾ってみました。


【ヒント1】
「ナンバーツーっていうとさ、

 組頭とか、そういうのかと思っちゃう。」(学芸人M)


【ヒント2】
「知ってるか、海外ではさ、「コーヒー」って言うと通じねんだぜえ、

 「カフィ」ってんだぜえ。」(学芸人S)


このあたりにも表れる、共通の理由がありそうな、そんな気がします。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 14:52| Comment(3) | 日記

2017年11月17日

おかのぼりじろべえ

みなさんこんにちは学芸員Aです。

昨日の終業間際、博物館に電話がありました。

大学の大先輩からでした。

「学芸員A君はさあ、岡上景能って人を知ってる?」

「押忍。全然知らないっス。」

「十日町にも貢献した笠懸村出身の偉人だ。調べとけ。」

「押忍。調べます。」

「じゃ、よろしく。」(ガチャ)


(以上は要約。)


そんなわけで終業後に文献調査。

まずは市史。

いきなり見つけました。岡上次郎兵衛さん。たぶん同一人物。

市史によると、越後国の高田藩がお取り潰しにあったあと、

現十日町市が属していた魚沼郡が高田の代官所預かりとなったときの最初の代官様、

それが岡上(おかのぼり)さん。17世紀後半のことです。

出身は現・群馬県みどり市(旧・笠懸村)だそうで、向こうでは大変な偉人なんだとか。

十日町では旧・十日町村の新田開発に業績があり、岡上堰なるものを作ったり、

智泉寺などに土地を寄進したり、いろいろ功績のある人だったらしいです。

彼の最後は、悲しいことに不首尾により切腹だったそうですが、

十日町の発展に一役買ったお方のようです。


「押忍。調べました。素晴らしい人でした。」

「そうだろう。分かれば良い。では。」(ガチャ)

(繰り返しますが要約ですよ・・ブルブル。)


さてその新田はどこなのか。

向島新田とか島新田とか林新田、そんな名が出てきました。

岡上堰というのもあります。

近くの職員に聞いてみました。


「まったくわからない。」


ですよね。新田なんて五万とありますもんね。

でも、旧・十日町村のなかで「島」って言ったら、あそこじゃないでしょうか。

最近、住居表示の地番整理「市街第10・11計画区」の「住吉町」に入ったところ。

そのへんに新田を作るのに水を引く必要があったので堰を作った、ということなのでしょう。

信濃川本流ではないでしょうから、きっとその支流、

北側を流れる中沢川から引いたのかもしれないですね。

どういうものだったのか、岡上堰(おかのぼりせき)。

気になりますが、現代の河川工事がガッツリはいってますから、

図面が残ってなければ場所の同定は困難でしょう。残念。


ところで、みなさん、江戸時代の役所のことを「陣屋」(じんや)っていいますけど、

十日町にはどこにあったかご存知ですか。

十日町駅通りの真ん中くらいの北側、いまはパーキングになっている辺りだそうです。

昔を知っている人なら、旧・十日町郵便局のところといえば、わかりやすいでしょうか。

ここです。

今行くと、もれなく普通の駐車場が見られます。記念碑とかはありません。


旧・十日町郵便局については、なんと写真が公開されています。

文化遺産オンラインです。いつのまに。

郵便を運ぶのも一苦労だった様子が写真に写ってます。

だって豪雪ですものね。何をするのも大変。

江戸時代でも、代官が変わったりすると、

庄屋たちがこぞって嘆願書をだしたりしてたらしいです。

「雪とか水害とかある地域だから、諸事大変だってこと、よくご理解ください。」

そんな感じで。


お、陣屋の写真も!



・・・って、あるわけないですね。



すみません。あったらいいなという願望が一瞬、首をもたげただけです。


学芸員A
posted by 十日町市博物館 at 14:20| Comment(0) | 日記